【HISTORY】歴史を辿ると、ヒューマネージが見えてくる。 社長が語るHUMANAGE VOYAGE<第1話>

VOYAGE

歴史を辿ると、ヒューマネージが見えてくる。
社長が語るHUMANAGE VOYAGE

ヒューマネージが、「人材の“採用”から“定着”、その先の“活躍”までを支援する」今のかたちになったのは、2007年、社長の齋藤さんがMBO(会社の経営陣が株主から事業譲渡を受ける)により独立したときからです。前身の会社との出会いから、考えてもいなかった独立までの経緯を、社長の齋藤さんに聞きました。

社長の齋藤さん(齋藤 亮三)

1964年生まれ。静岡県出身。1988年慶應義塾大学卒業後、日商岩井(現・双日)に入社。1999年4月、アトラクス(現・芙蓉アウトソーシング&コンサルティング株式会社)へ出向、その後、取締役副社長に就任。2004年12月、適性アセスメント事業及びウェルビーイングソリューション事業を分社化してアトラクス ヒューマネージ(現・ヒューマネージ)を新設、代表取締役社長に就任。2007年7月、MBO(マネジメント・バイ・アウト)を実施し、独立。人的資本経営の観点から実践的なソリューションの提供を目的とした独自の人材サービス事業の創出に取り組む。

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社長の齋藤さん(齋藤 亮三)

  • 1964年生まれ。静岡県出身。1988年慶應義塾大学卒業後、日商岩井(現・双日)に入社。1999年4月、アトラクス(現・芙蓉アウトソーシング&コンサルティング株式会社)へ出向、その後、取締役副社長に就任。2004年12月、適性アセスメント事業及びウェルビーイングソリューション事業を分社化してアトラクス ヒューマネージ(現・ヒューマネージ)を新設、代表取締役社長に就任。2007年7月、MBO(マネジメント・バイ・アウト)を実施し、独立。人的資本経営の観点から実践的なソリューションの提供を目的とした独自の人材サービス事業の創出に取り組む。

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歴史を辿ると、ヒューマネージが見えてくる。
社長が語るHUMANAGE VOYAGE

ヒューマネージが、「人材の“採用”から“定着”、その先の“活躍”までを支援する」今のかたちになったのは、2007年、社長の齋藤さんがMBO(会社の経営陣が株主から事業譲渡を受ける)により独立したときからです。前身の会社との出会いから、考えてもいなかった独立までの経緯を、社長の齋藤さんに聞きました。

社長の齋藤さん(齋藤 亮三)

1964年生まれ。静岡県出身。1988年慶應義塾大学卒業後、日商岩井(現・双日)に入社。1999年4月、アトラクス(現・芙蓉アウトソーシング&コンサルティング株式会社)へ出向、その後、取締役副社長に就任。2004年12月、適性アセスメント事業及びウェルビーイングソリューション事業を分社化してアトラクス ヒューマネージ(現・ヒューマネージ)を新設、代表取締役社長に就任。2007年7月、MBO(マネジメント・バイ・アウト)を実施し、独立。人的資本経営の観点から実践的なソリューションの提供を目的とした独自の人材サービス事業の創出に取り組む。

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Episode01

「いつか起業したい」
そんな漠然とした夢を抱えつつ総合商社に入社

「いつか起業したい」
そんな漠然とした夢を抱えつつ総合商社に入社

子会社社長に若手社員を大抜擢!・・・
そんな新聞記事の見出しが目に飛び込んできた

大学で会計学を専攻していた私は、公認会計士を目指すべく、大学3年生の春から会計学のゼミに入り、専門学校にも通っていました。しかし、4年生の初夏に受験した公認会計士の二次試験に失敗。留年して再チャレンジするか、それとも大学院で会計学をさらに究めようか、はたまた一般企業に就職するか、迷っていました。会計学をそれなりに勉強してみて、自分には会計士という仕事はあまり向いていないと思ったからです。また、大学院に進んで研究者を目指すタイプでもなかったため、一般企業への就職に方針転換しました。当時の就職活動は4年生の初夏にはじまりましたから、そのタイミングでも間に合ったのです。

就職活動をはじめてみたものの、どの業界でどんな仕事に就きたいという明確な意思もなく、漠然と企業研究をする中で目に飛び込んできたのが、「総合商社の日商岩井 、子会社社長に若手社員を抜擢!」という新聞記事でした。

実は、私が大学1年生の時、大手企業に勤めていた父が突然会社を辞めて会社を立ち上げ、その会社が数年で急成長していったのを目の当りにして、自分なりに「いつかは自分も起業してみたい」と考えるようになっていました。ただ、そのための道筋を具体的に考えていたわけではありませんでしたので、「そうか、日商岩井に入れば起業のチャンスがあるかもしれない」と極めて単純に考え、同社に応募しました。
当時の日商岩井は、バブル期の象徴となったディスコ“ジュリアナ東京”を経営するなど話題も多く、就職人気ランキングのベスト10にランクインしたこともある人気企業。当然、狭き門でしたが、運良く採用され、入社することになりました。

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これぞ商社マンという仕事を手がけ、世界を飛び回る

これぞ商社マンという仕事を手がけ、世界を飛び回る

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入社後、配属されたのは、全社決算を担当する主計部でした。大学時代の専攻を活かす場を与えられ、それはそれで充実した仕事でしたが、自分としては、やはり商社の花形、営業部門で世界を股にかけた活躍がしたいと思っていました。

そんな希望がかなったのは、入社4年目。ブラジルから金属鉱石を輸入して日本の製鉄メーカーに販売し、さらにアジアの国々にも輸出するという典型的な商社ビジネスでした。優秀な上司にも恵まれ、商売のいろはを徹底的に叩き込まれました。

1996年には日商岩井の中でも稼ぎ頭の花形事業部である通信プロジェクト部に異動し、中南米の通信プロジェクト向け投融資案件を担当しました。私は、ブラジルやアルゼンチン向けの携帯電話事業プロジェクトを手がけ、一年の大半を中南米で過ごしました。グローバルなスケールで世界を飛び回る“これぞ商社マン”という仕事で、きつく大変でしたがやりがいもあり、いつの間にか「起業する」などという夢もすっかり忘れていました。

そんな矢先、忘れもしない1998年9月25日、メキシコ出張中にニューヨークの同僚から「東京本社で1,600億円の特別損失が発覚したぞ!」という一報が届いたのです。この事件を境に、日商岩井は、深刻な経営危機に陥り、順風満帆だった商社マン生活に一気に暗雲が拡がりはじめました。通信プロジェクト部で進行中の投融資案件はすべてストップとなり、海外出張すらできない日々が続きました。

そんなとき部長に呼ばれ、「投融資再開の目処が立たないため、うちの部にいても仕方がない。アトラクスに出向しないか」と打診されました。

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